
ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh、1913年11月5日 - 1967年7月8日)は、イギリスの女優。
生涯
インドのダージリン出身。本名は、ヴィヴィアン・メアリー・ハートリー(Vivien Mary Hartley)。リーはアイルランドの家系の子孫であるが、アルメニアのパルシー教徒及びインド人の祖先もいると言われている。リーは両親と共にイギリスに移り住み、彼女はそこで成長した。彼女はローハンプトンのセイクレッド・ハート修道院に入り、そこで後の女優仲間となるモーリン・オサリヴァンと出会う。その後彼女は王立演劇芸術アカデミーを卒業した。
彼女は1932年にハーバート・リー・ホルマンと結婚し、彼らの間には1933年に娘のスーザンが生まれた。彼は彼女との結婚の間、彼女のマネージャーもしていた。
女優としてのリーの経歴は、舞台演劇から始まった。彼女の初出演作は『緑の飾り帯 The Green Sash』であり、彼女をスターダムに押し上げた作品は『美徳の仮面 Mask of Virtue』であった。1935年に彼女は初めて映画『探しだされるもの』に出演した。しかしながら彼女の最も有名な出演作は1939年の『風と共に去りぬ』であった。彼女はハリウッドに進出したイギリスの男優ローレンス・オリヴィエを追って渡米していた。ヒロインの決まらぬまま、撮影所ではアトランタ炎上のシーンが撮影されていた。その場で、プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックに「スカーレットがそこにいた!」と見いだされた。当時オリヴィエのマネージャーを務めていた彼の兄のマイロンに紹介されたのだ。そして彼女は主演・スカーレット・オハラ役でアカデミー主演女優賞を受賞した。
ヴィヴィアン・リーとローレンス・オリビエ
ヴィヴィアン・リー、1958年
1940年にリーはホルマンと離婚し、オリヴィエと再婚した。彼らの出会いは1935年であり、その交際は人目をはばかることなく行われたが、当時オリヴィエの妻であった女優のジル・エズモンドは妊娠していた。ジルは後に男児を出産。彼女はリーを責めなかった。
1944年に彼女は左肺が結核に感染していると診断された。病気にもかかわらず彼女はソーントン・ワイルダー作の舞台『危機をのがれて Skin of Our Teeth』や1946年には映画『シーザーとクレオパトラ』に出演したが、それは彼女の結核を悪化させる原因となった。また、サー(Sir)の称号を得た、オリヴィエという偉大な俳優を夫に持った故に、同じく俳優として大成したい、オリヴィエの配偶者としてのレディー(Lady)の尊称ではなく、彼と同等に、女性の称号デイム(Dame)が欲しいという願望に、引き裂かれた。1951年に彼女は映画『欲望という名の電車』でのブランチ・デュボワ役で2度目のアカデミー賞を受章した。
1960年代の初めに彼女は二度流産し、結核で体力も衰えていた。さらに彼女は双極性障害に暫くの間悩まされた。双極性障害は彼女の快復の障害の大きな要因と考えられた。1960年に彼女とオリヴィエは合意の上離婚した。「レディー・オリヴィエは、オリヴィエのためなら何でもしてあげます。」と、離婚に同意したという。彼女は後に友人の俳優ジョン・メリヴェールと同居している間でさえ、ベッドサイドのテーブルに額に入ったオリヴィエの写真を飾っていた。
二度目の結婚のせいで、ホルマンと娘スーザンを捨てたかたちになっていたが、彼女は二人と連絡を取り合っていた。スーザンが初めて出産したとき、祖母になった彼女は、生まれて間もない孫を抱くことができた。女優のジュリエット・ミルズの名付け親である。他に素晴らしい孫3人にも恵まれた。
リーは慢性的な結核の末、1967年にロンドンの自宅アパートで喀血によって気管を詰まらせて死去。火葬に付された。彼女の遺灰はロンドンのサセックス、ブラックボーイズの近くにあるティッカレジ・ミル湖にまかれた。
リーはその生涯をイギリスで閉じたが、ハリウッドの人々は彼女の女優としての功績を称え、ハリウッド大通り6773番地のハリウッド名声の歩道に、彼女の名を刻んだ星型のタイルを埋め込んだ。
主な出演作
欲望という名の電車 (1951年)『探しだされるもの』 - Things Are Looking Up (1934)
『田舎紳士』 - The Village Squire (1935)
『紳士協定』 - Gentleman's Agreement (1935)
『見つめて笑え』 - Look Up And Laugh (1935)
『無敵艦隊』 - Fire Over England (1937)
『間諜』 - Dark Journey (1937)
『茶碗の中の嵐』 - Storm In A Teacup (1937)
『21日間』 - Twenty-One Days (1937)
『響け凱歌』 - A Yank At Oxford (1938)
『セント・マーティンの小径』 - St. Martins Lane (1938)
『風と共に去りぬ』 - Gone With the Wind (1939)
『哀愁』 - Waterloo Bridge (1940)
『美女ありき』 - That Hamilton Woman (1941)
『シーザーとクレオパトラ』 - Caesar and Cleopatra (1945)
『アンナ・カレーニナ』 - Anna Karenina (1947)
『欲望という名の電車』 - A Streetcar Named Desire (1951)
『愛情は深い海の如く』 - The Deep Blue Sea (1955)
『ローマの哀愁』 - The Roman Spring of Mrs. Stone (1961)
『愚か者の船』 - Ship of Fools (1965)
主な受賞
アカデミー賞
1939年度 主演女優賞『風と共に去りぬ』
1951年度 主演女優賞『欲望という名の電車』
英国アカデミー賞
1952年度 主演女優賞『欲望という名の電車』
ニューヨーク批評家協会賞
1939年度 女優賞『風と共に去りぬ』
1951年度 女優賞『欲望という名の電車』
ヴェネチア国際映画祭
1951年度 女優賞『欲望という名の電車』
外部リンク
Vivien Leigh(英語)
『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind)は、1939年のアメリカ映画。ヴィクター・フレミング監督作。マーガレット・ミッチェルによる同名の世界的ベストセラー小説『風と共に去りぬ』を映画化したものである。全編で3時間42分という大長編であるにも関わらず、当時空前のヒットを記録した。
メトロ・ゴールドウィン・メイヤーとセルズニック・プロダクションが製作したテクニカラー方式による大作メロドラマであり、製作費や宣伝費に大金をかけるさきがけとなった作品でもある。
アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演女優賞(ヴィヴィアン・リー)、助演女優賞(ハティ・マクダニエル・黒人俳優として初)、脚色賞ほか特別賞を含め9部門を受賞。ちなみに、この作品が受賞することが授賞式で発表される前に新聞社が発表してしまった為、それまで新聞社にはあらかじめ知らせてあった受賞結果をプレゼンターが名前を読み上げるまでは厳重に管理することとなった。
キャスト
スカーレット・オハラ:ヴィヴィアン・リー(吹き替え: 戸田恵子)
レット・バトラー:クラーク・ゲーブル(吹き替え: 江守徹)
アシュレ・ウィルクス:レスリー・ハワード(吹き替え: 荻島真一)
メラニー・ハミルトン:オリヴィア・デ・ハヴィランド(吹き替え: 香野百合子)
ジェラルド・オハラ :トーマス・ミッチェル(吹き替え: 織本順吉)
エレン・オハラ:バーバラ・オニール(吹き替え: 富田恵子)
マミー:ハティ・マクダニエル(吹き替え: 中村たつ)
スエレン・オハラ :イヴリン・キース(吹き替え: 勝生真沙子)
キャリーン・オハラ :アン・ラザフォード(吹き替え: 岡本茉利.)
スタッフ
監督:ヴィクター・フレミング
製作:デヴィッド・O・セルズニック
音楽:マックス・スタイナー
受賞歴
1939年(第12回)アカデミー賞
作品賞:風と共に去りぬ
監督賞:ヴィクター・フレミング
主演女優賞:ヴィヴィアン・リー
助演女優賞:ハティ・マクダニエル
脚色賞:シドニー・ハワード
撮影賞(カラー):アーネスト・ホーラー、レイ・レナハン
室内装置賞(美術賞):ライル・ウィーラー
編集賞:ハル・C・カーン、ジェームズ・E・ニューカム
特別賞:ウィリアム・キャメロン・メンジース(劇的な色彩の使用に対して)
(主演男優賞、作曲賞、特殊効果賞(視覚効果賞)、音響賞 にもノミネート)
1939年(第5回)ニューヨーク批評家協会賞
女優賞:ヴィヴィアン・リー
その他・備考
1939年12月15日にアトランタから公開開始。日本での初公開は1952年。初公開時には、南北戦争の南軍兵士の生き残りが招待された(初公開を報じた当時のニュース映画にも、その模様が映っている)。
「二度と製作することができない」豪華さとまで喧伝され、映画史上屈指の名作との呼び名が高い。スカーレット役選びが難航したこと、プロデューサーのセルズニックが自らの意を通すために断行した度重なる脚本家や監督の交代劇など、その製作過程には数々の逸話が残されている。
スカーレット役選びは映画制作前の一大キャンペーンとして、全米各地にてオーディションが行われた。映画の舞台であるアトランタで選ばれたイブリン・キーズはスカーレットの妹スエレン役にキャスティングされた。
スカーレット役の有力候補にはスーザン・ヘイワード、ラナ・ターナーなどがいて実際テストもしていたが、本当に決まりかけていたのはポーレット・ゴダードだった。しかしながらチャーリー・チャップリンと未婚のまま同居していたことなどから決定されなかった。
監督は当初ヒューマンドラマの名匠ジョージ・キューカーだったが、キューカーはセルズニックが思うような迫力を出せず、フレミングに交代した。さらに、映画制作終盤で一時サム・ウッドが監督になった。過労のためぴりぴりしていたフレミングにセルズニックがあれこれ口を出したためといわれる。
マックス・スタイナーによるテーマ曲『タラのテーマ』は、格調高いナンバーとして映画音楽の古典となっている。
アメリカ映画協会が選出したアメリカ映画ベスト100では4位にランクインされている。
アメリカ国内での興行収入は198,676,459米ドルであり、チケットの値段のインフレ調整を行うと第1位になる。[1]
1975年10月8日と10月15日に、日本テレビの『水曜ロードショー』で前・後編に分けて世界初のテレビ放映が行われた。テレビ放映を行うにあたって、日本テレビは放送権を当時の価格で6億円で購入したという。33.0%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)の視聴率を記録した。
有名なヒロインの最後の台詞は「After all, tomorrow is another day. (結局、明日は別の日なのだから)」である。従来はこれを「明日は明日の風が吹く」と訳すことが多かったが、最近ではより原文に近い「明日という日がある」と訳されることが多い。
しかし当のアメリカでより有名な台詞は、この直前にレットが去り際に吐く捨て台詞である。スカーレットに「これから私はどうしたらいいの?」と聞かれたレットは、「Frankly, my dear, I don't give a damn. (はっきり言ってね、おまえ、そんなこと俺の知ったことか。)」と振り向きざまに言う。この「damn」は強いののしりの言葉で、製作当時は映画において使うべきではない言葉 (いわゆる禁止用語) と考えられていたが、原作の台詞を一言も変えないというセルズニックの強い意向によって盛り込まれた。2005年、アメリカ映画協会はこれを「最も記憶に残る映画のセリフ」に選んでいる。(なお日本語での定訳は「知らないね、勝手にするがいい。」)
1989年、アメリカ国立フィルム登録簿に登録された。
作品賞のオスカー像は競売に出されて、歌手のマイケル・ジャクソンが1999年の6月に150万ドル(約1億5750万円)で落札した。ジャクソン曰く、「この映画のオスカー像を手に入れるのが長年の夢だった」。
正規版DVDは2種類有り、通常版と限定版がある。通常版(レンタルも、こちら)は世にも稀な両面1層なので再生中に裏返す必要がある。限定版(セルのみ)は4枚組(本編2枚、特典2枚、いずれも片面2層)の贅沢な構成となった。
本作は作品中(オープニングタイトル、エンドロール、等)に著作権表記が無かったため公開当時の米国の法律(方式主義)により権利放棄とみなされ、米国に於いてはパブリックドメインとなった(このため、コモンズに高解像度のスクリーンショット、ウィキクオートに台詞の抜粋が収録されている)。又、日本においては著作権の保護期間が完全に終了(公開後50年と監督没後38年の両方を満たす)したことから現在、複数の会社から激安DVDが発売中。超大作であることから、会社によっては、前編と後編に分けて片面1層で発売する所と、激安DVDには珍しく片面2層として裏返したり入れ替えたりする手間を省けるようにしたものがある。
脚注
^ BOX OFFICE MOJO
外部リンク
デジタル・ニューマスター版公式サイト(日本) 原作誕生70周年を記念し、2006年の正月映画として日本で劇場公開されたときのもの。



